風城峠の回顧録

ゲームや本、地学のことなど

地学との出会い 第2回・次々に来る地震 本との出会い(2007年~2011年)

第1回はこちらから

 

shikakuyama.hatenablog.com

 

 第2回は僕が地学に興味を持ち始めた小学生時代の話です。なぜそうなったのか?そのターニングポイントとなった出来事が2007年、小2の時に起きました。

 新潟県中越沖地震です。

 それは中越地震の発生からまだ3年も経っていない2007年7月16日の午前10時13分に発生、マグニチュードは6.8であり、新潟県柏崎市刈羽村長岡市(旧・小国町)、それに長野県飯綱町震度6強、僕の住んでいた上越市でも、柿崎区吉川区などの市内北部、それに三和区震度6弱直江津、高田といった市街地でも震度5強を観測し、市内の多くの場所で中越地震の揺れを上回りました。(市内北部の田園地帯では震度6強相当の揺れがあったと考えられる場所もあるようです)上越市では最も震源に近い市内最北部の柿崎区では、柿崎駅の駅舎に被害が出て、地震後駅舎が新しく建て直されました。高田図書館では本棚の本がドサドサと落ちてきたそうです。

 

 この地震があった時のことを僕はありありと覚えています。その日は海の日で休日、僕は2階の子ども部屋で寝転がって本を読んでました。すると、体全体が横にゆっくりと揺れ出したのです。あれ?と思って立ち上がると揺れはどんどん大きくなっていきます。これはやばい!と思った僕は完全にパニックになり、一番揺れが強かった頃に1階のリビングに向けて階段を駆け下りるという今思えば物凄く危険なことをしました。当時自分にとってリビングが一番安心できる場所だったんですよね・・・。大人しく子ども部屋の勉強机の下に隠れていればいいものを・・・。まあ子ども部屋もゴチャゴチャしてますし安全という訳でも無いですが・・・。というわけで揺れてる最中にリビングのテーブルの下に駆け込み、揺れが収まるのを待ちました。

 揺れが収まると隣の部屋にいた父親も1階に下りてきました。父親によると寝室のタンスが揺れで倒れそうになっていたそうです。(震度5強なのでタンスが倒れてもおかしくはない揺れです。我が家はギリギリセーフでした)買い物に出ていた母親と弟は家を出てすぐの交差点で車の中で地震に遭い、揺れが収まった後すぐに家に戻ってきました。幸い我が家は当時築1年という新しい家だったこともあり、被害はありませんでした。停電や断水なども起きませんでした。隣の町内にある祖母の家では、揺れで棚の上に置いてあった花瓶が落ちて割れたそうです。

 

 この地震が来るまで、地震はあまり怖くなかったんですよね。僕は人一倍怖がりでしたが、中越地震の時は、そもそも地震が何か分かっていなかったこともあって、凄く怖かったという記憶がありません。2007年3月に起きた能登半島地震の時も上越市は震度4でそこそこ揺れましたが、これもあまり怖くは感じませんでした。しかし、中越沖地震によって、地震は完全に恐怖の対象となったのです。

 

 そして中越沖地震の復興真っ最中の2007年12月、その前にあった中越地震を題材としたある映画が公開されました。「マリと子犬の物語」です。

 この映画は新潟県民なら今でも覚えている人が多いと思われますが、何しろ12年前の映画なので、他県の人は忘れてしまった、そもそもどんな映画?って人も多いでしょう。簡単にあらすじを書いておくと、山古志村(現・長岡市)に犬たちとともに暮らすある家族がいました。しかし中越地震が発生し、激しい揺れで家は倒壊。一家は長岡市の街の方への避難を余儀なくされます。しかし、犬たちは避難所に連れて行けず、倒壊した家に取り残されることに。離ればなれになってしまった一家と犬たち。そこで子どもたちと犬たちは・・・って内容です。ちなみに実際にあった出来事を元に作られており、モデルとなった犬も実在しています。

 なぜわざわざこの映画をここで取り上げたかというと、人生で初めて映画館で観た映画だからです。家族で観に行ったのですが、多分観ようと言い出したのは母親でしょう。(この映画はいろいろあって思い出深いのですが、基本的に僕は動物モノの映画はあまり興味ありません) 地震のシーンが凄まじく(映画館で観るとなおさら)、改めて地震の怖さを脳内に擦り付けられましたね。そういう意味で印象的な映画でした。いや、ストーリーも感動的でしたよ?

 ちなみに、正確な時期は忘れたけれど、この少し後くらいにテレビで「日本沈没(2006年版)」を観たりもして、地震に対する恐怖が自分の中で膨れ上がっていくばかり・・・。しかし、中越沖地震から始まったこの一連の出来事が、僕が地学に目覚める大きなきっかけとなったのです。

 

 そう、地震に強い恐怖心を抱いていたからこそ、地震について色々と知りたくなったんですね地震はなぜ起こるのか、起きやすい場所はどこなのか、起きたらどんな被害が出るのか、そういうことを子どもながらに知りたかった。小学生がまず手に取るのは小学生向けの学習漫画ですよね。上越科学館の教養資料室(この部屋の正式名称を今調べて初めて知りました)に置いてあった地震学習漫画が印象に残っています。やや古い本だったので、宮城県沖地震(1978年)とか松代群発地震(1965年~1970年)とかチリ地震津波(1960年)とか事例として挙げられていました。阪神淡路大震災よりも前に出された本だったかな?そんな感じでちょっとずつ地震に対する知識を蓄えていました。

 

 また、地震以外の地学分野にも興味を持つようになっていきます。皆さんは「科学のアルバム」って本のシリーズはご存じですか?植物、動物などの生態や、地学的な自然現象について写真を交えながら小学生向けに解説した本なのですが、僕は小学生の頃このシリーズの本を分野問わず読みまくってましたね。その中でも、鍾乳洞や鉱物、火山について書いてある本が強く印象に残りました。特に鍾乳洞の美しさには惹かれましたね。昔は洞窟探検の様子を放送するテレビ番組が大好きでした。

 

 今は何故かそんなでも無いのですが、昔は気象分野も結構好きだったんですよ。特に雪ですね。新潟といえばやっぱ雪でしょ。そのきっかけとなったのが、「グラフで見る雪の高田」という、それぞれの年に高田で雪がどれだけ積もったかというグラフが載っているカレンダーです。毎年新しく作り替えられ、上越市内の公共施設によく貼ってあります。僕がそれに初めて出会ったのは確か2008年版だったと思います。昭和末期に高田で約3mもの雪が積もっていたことを知り衝撃を受けました。それ以降、そのグラフを見るたびに嬉しくなりました。

 

 さて、時は変わって2010年10月初め、上越市である地震が発生しました。大した地震じゃないので市民ですら忘れているかもしれませんが、個人的には印象に残ったので書き記しておきます。

 始まりは2010年10月2日の12時35分頃、上越市東部を震源とした最大震度4の地震が発生しました。ただし、2000年代後半頃は新潟県中越地方~上越地方にかけての地域では、時折震度3~4程度の地震が起こることは特に珍しくなかったので、あまり気に留めませんでした。

 しかし翌朝、何やら凄い音がして目が覚めました。再び地震が起きたのです。リビングに下りてきてしばらくするとまた地震が来ました。「さっきのより大きくない?」と言う母親。短時間で有感地震が次々に来たのです。2010年10月3日の朝6時台に新潟県上越地方で起きた地震を書き並べるとこうなります。

・6時37分 M4.5 最大震度4

・6時39分 M3.7 最大震度3

・6時52分 M4.6 最大震度4

・6時57分 M3.4 最大震度3

 7時台になると一旦地震は収まりました。その日の朝は町内の廃品回収があり、朝食を食べた後、近所のそれぞれの家の前に出されている新聞や雑誌などを集めて回りました。一仕事終えて、リビングと隣接している和室の窓際でぼーっとしていると再び揺れが。しかも6時台の地震よりもやや大きい!揺れている最中にテレビで鳴り響く緊急地震速報。テーブルの下で揺れが収まるのを待ちながら一気に不安に襲われました。この9時26分頃に起きた地震では、M4.7、最大震度5弱を観測。上越市内で震度5以上の揺れが観測されたのは中越沖地震の日以来の出来事でした。多くの上越市民は「次に大地震に襲われるのは上越か」と不安になったことでしょう。しかし幸いなことに、その後特に目立った地震は起こりませんでした。

 

 

 さて、文章の進行の都合により一旦過去に戻ります。正確な時期は覚えていませんが、多分小3くらいの頃、僕は「津波ものがたり」という本を読みました。明治三陸津波昭和三陸津波チリ地震津波日本海中部地震などを題材にした物語が収録されています。僕はこの本で津波という災害を知りました。小学生向けの本とはいえかなり悲しい内容の話が入っており、強く印象に残りました。しかし、当時の僕は「昔はこんな悲惨なことがあったんだな」と、どうも現在の日本と津波を結びつけることが出来ず、悲しい昔話だとしか受け取ることが出来ませんでした。そう、あの日が来るまでは・・・。

 

 2011年3月11日、僕の小学校はワックスがけを行う日になっており、清掃の時間が普段とは違っていました。自分の担当場所での掃除を終え、自分の教室に戻ってきて教室前の廊下に立っていると、廊下で掃除の反省会をしていた人々が突然しゃがみ出しました。何だ?と思うのと同時に足下が横に大きく揺れているのに気付きました。そこまで強くはありませんが長い揺れで、周期が長かったこともあって揺れ終わった後もいつまでも体が揺れているような感覚に陥る不気味な揺れでした。地震後の校内放送では「北海道沖で地震宮城県震度7」と言っていたような覚えがあります。(「東北沖」ではありませんでした。廊下にいたある人がこの放送が流れたとき「北海道!」って叫んでいた記憶があります)この東日本大震災の本震で、上越市が観測した震度は4でした。

 

 その後いつも通りに帰りの会が行われ、帰宅の途に付きました。3月中旬ですが、雪がちらつく寒い日でした。きっと東北もそうだったのでしょう。家に入ってテレビを付けると、津波に襲われる港の映像が・・・。どのチャンネルでも日本で起きている異常な出来事を報道していました。地震のニュースばかり見ていると気が滅入ってくるので、チャンネルをアニマックスに変えました。ケロロ軍曹とかモジャ公とかやってましたが、物凄いニュースを観た後なので、内容が頭に入ってこなかったですね。今思うと、東日本大震災の日の夕方にこういうことが出来るということは、自分の住む街が普段と変わらない平和な世界だったことを示しており、少し複雑な気分になりますね・・・。

 

 その後も普段通りに夕食をとり、何となくテレビを眺めて、「東北の話だから上越はもう揺れないだろう」と少しの安心感を抱きながら夜10時過ぎに眠りにつきました。その後誰も予想出来なかったある地震が起きることも知らずに・・・。

 眠りに落ちてから何時間経ったでしょうか。まだ部屋が真っ暗な頃、体が上下に揺れているのに気付いて目を覚ましました。え?また地震?しかも結構大きい、昨日の夕方の地震よりも大きいかもしれない、もしかするとまた東北で震度7?頭の中にクエスチョンマークをいくつか浮かべながら布団の中でジッとしていました。

 揺れが収まった後、また東北だろうと思ったので再び眠ろうと目を閉じました。しかし数分後、再び震度2程度の地震が来ました。これはおかしいと思い、寝室を抜け出してリビングに向かいました。そしてテレビに映されていたのは、「長野県北部で震度6強」の文字。えっ、どういうこと?東北じゃなくて、長野?長野県栄村で震度6強新潟県十日町市津南町震度6弱上越市も震度5強と表示されていました。(ちなみに上越市で震度5強を観測したの三和区のみです。直江津、高田などの市街地では震度4~5弱相当の揺れでした)これが長野県北部地震、または新潟・長野県境地震などと呼ばれる地震です。2011年3月12日の午前3時59分に発生し、マグニチュードは6.7。揺れの強かった地域に住む人々は、東北だけでなく自分たちの町にもこんな地震が起こるなんて誰が予想出来たでしょうか。上越市もこちらの地震の方が揺れが大きかったですし。本当に理解を超えた出来事でした。ねえ、日本はどうなってしまったの!?

 さて、それからはテレビで次々に鳴る緊急地震速報。その震源は長野県北部だったり、東北・関東沖だったり。上越市長野県北部地震の方の余震の影響を受け、大きくても震度3~4程度でしたが夜が明けるまでしょっちゅう揺れました。そんなんじゃ眠れる訳がありません。結局午前4時に強制的に起こされてからはリビングでずっと落ち着かない時間を過ごしました。

 ちなみに東日本大震災長野県北部地震では揺れの性質が違いました。東日本大震災の本震では横方向にゆ~らゆ~らと揺れている感じでしたが、長野県北部地震では上下方向にはっきりと揺れました。地震のメカニズムも、震源からの距離も違いますしね。その後の余震でもそれは如実に表れており、東北沖を地震とする地震では震度1~2だと気付かないことが多かったですが、長野県北部を震源とする地震では、震度1~2でも家がミシッと音を立てました。

 

 空が明るくなると次々に明らかになる被害の大きさ、今まで見たことがない死者や安否不明者の数、ちょこちょこ来る余震。怖がりなので精神的に参ってきたため、午前中気晴らしに父親と散歩に出かけました。やはり直江津の町は外見上はいつも通りの姿です。しかし、この頃日本各所ではとんでもないことが起きていたわけです。午後になると福島第一原発が爆発。正直ニュースなんてもう見たくもありませんでした。だけど、今は、あのときもっとしっかりとニュースを見ておけば良かったなと思います。歴史に残る大災害が起きていたのですから。

 

 東日本大震災を期に、地震に対する恐怖はさらに増しましたが、それと同時に興味も増すことになりました。それ以降、地震関連の番組はほぼ欠かさず見るようになります。

 

 今回はある意味激動の時代のことについて書きました。次回以降はある程度平和な話になるかと思います。ただし、このブログ自体の次回はまたゲーム回顧録に戻ります。「地学との出会い」の次回がいつになるかはまだ未定です。結構先になるかも・・・。

 

 

〈ゲーム回顧録 次回予告〉

「見つかった・・・。」